路傍の晶
Eucharis Bee(ユーチャリス ビィ) 澤田さん
旧車ならではの重厚感ある音とともにドアを閉め、キーを差し込む。セルを回すと奏でられる排気音が心地いい。この車に乗り始めてもう10年が経つ。免許を取って初めて手にしたマイカーに、いまなお大切に乗っているのだ。
「僕はなにか物事に携わると、その一つひとつが長いんですよ」そう言って、店長の澤田さんは笑った。たしかに趣味の車だけではない。思えば仕事も、長い間ひとところに腰を据えていた。専門学校を卒業後、全国展開する美容室の西葛西店に配属になって以来、20年ちかくおなじ店で働いた。数年単位で移動が繰り返されるグループ企業では異例の出来事といえるだろう。床掃きに始まった役割から着実に段階を踏んで、店長まで上りつめた。
勤め始めた当時の風景が懐かしい。平成元年当時、店の周辺には畑が広がり、商業施設も少なく閑散としていたものだ。いまでこそ電車が西葛西駅に着けば利用客がどっと降り立つようになったが、かつては乗客もまばらで、降りるひとさえ数えられる程度だったという。バブルを経由してマンションが建ち始め、あわせて商業施設も増えてくると、街は次第に活気を帯びていった。
西葛西の推移を見守ってきた澤田さんがある挑戦を思い描くようになったのは、およそ1年前のことだ。グループからの独立である。
「エステやマッサージなど、美容に関して会社がトータルに力を入れ始めたんですが、うちの店では手を広げようにもスペースが限られてしまう。つまり物理的に不可能なんです。かといって、地域の人の流れがいいことは長年働いて分かっていますから、この場所を離れるのはもったいない。もちろん通ってくださるお客さんもいる。それならばと思い、場所もスタッフも変えないかたちでの独立を考えるようになりました」
こうして準備期間を経て今年4月、おなじ場所にユーチャリス・ビィはオープンした。「羽ばたいた感覚でモチベーションは高い」と、澤田さんの表情は清々しい。
「店のコンセプトは、『いらした方にゆったりくつろいでいただいて、普段とはちがう日常を味わっていただくための空間』。これまでの店で培ったサービスを引き継ぎつつ、視野を広げて、自分がいいと思ったことは積極的に取り入れていきたいですね。新しく手を付けたい部分はいろいろある。今後は内装も変えていく予定です」
店名には、「いいことを惹きつける」というギリシャ語を冠した。サロンを通して利用者に幸せが訪れるように、という思いからだ。さらに愛車の名前の一部も付け加えた。西葛西に足を踏み入れて約20年、澤田さんの新たな挑戦は、おそらくこれまでと同様に長い時間をかけて、実を結んでいくのだろう。
取材・文◎隈元大吾